ワトソンのブルドッグの謎

シャーロック・ホームズの第1作である「緋色の研究」の第1章に次のようなくだりがあります。
互いに同居人を探していることが分かったホームズとワトソンが、同居するに先立って自身の欠点となるところを打ち明けあうシーンです。

「(中略)君の方は、ここで白状しておくことがあるかな?同居する前に、一番悪い点を打ち明けあうのは、お互いにいいことだ」
私はこの反対尋問に笑い出した。「ブルドッグの子犬を飼っている」私は言った。「神経が弱っているので騒音は嫌いだ。とんでもない時間に起きる。そして非常に怠け者だ。体調がよければ他にもいくつか悪習があるが、今のところこれくらいかな」

このシーンで気になるのは、「ブルドッグの子犬を飼っている」というセリフ。なぜかというとワトソンがブルドッグを飼っているという描写はシャーロック・ホームズのシリーズ全編の中でもここだけで、「緋色の研究」の中ですらブルドッグなんかこの後一度も出てこないからです。

漫画とかでも連載初期の設定が作者に忘れられてその後全然出てこないという事はあったりするので(ジョジョとか)、単にコナン・ドイルがうっかりこの設定を忘れてしまっただけの可能性もあります。

だけどそもそもこの時のワトソンの状況としてもアフガニスタンの戦地から帰国してホテル暮らしをしている時期なので、犬を飼っているのはちょっと不自然に感じます。

3つの解釈

ではこのセリフはどういう事なのか?調べてみるとだいたい3つの説があるようです。

・文字どおりブルドッグを飼ってる
・癇癪持ち、気性が荒い性格を表す比喩
・拳銃を持っている

英語話者でも意見が分かれている

これは和訳する際に「ブルドッグの子犬」と直訳してしまった事が原因の日本特有の問題なのかと思ってたのですが、実際には英語圏でも意見が分かれているようです。

例えばこちらの記事。
https://www.ihearofsherlock.com/2022/09/the-bull-pup-canine-gun-or-something.html

(googleによる和訳)
文字通りの学派(ブルパップはワトソンが飼っている、または飼うつもりだった犬) と比喩の学派(ブルパップは銃または気性の荒さ) と呼ぶ2つの陣営に分かれています。 
ウッドは、どちらの陣営の証拠が最も説得力があり、正しい可能性が高いかについて結論を出すことはできないと結論付けている。彼は、どちらの場合も証拠が不足していると考えている。

とにかく「これが正しい」と断言できる説は無いようです。こちらの記事も参考に、3つの説を詳しく見ていきましょう。

説1:文字どおりブルドッグを飼ってる

ワトソンが本当にブルドッグを飼っていたと考える人も、結構いるみたいです。

この時ワトソンは戦地アフガニスタンから帰ってきて数か月の時期で、ちょっと前まで戦争に行ってた人が犬飼ってるのおかしくない?というところがこの説のひとつのネックになっているわけですが、先ほどの記事にはそれに対する反論も用意されています。

(googleによる和訳)
リチャード・J・スタックプール・ライディングは「軍隊では犬のような生活」の中でこう書いている。

「ビクトリア朝軍の将校やその他の下士官が、戦場を含むどこへ行くにも犬やその他のペットを連れて行くのは一般的な習慣でした。第 66 連隊 (バークシャー) の将校と兵士も例外ではありませんでした…」

(中略)
ご覧のとおり、犬は「アフガニスタンでは不可能」でもなければ、軍艦に乗せることも違法ではありませんでした。

同時代に軍隊で犬を飼っていた例はたくさん記録に残っており、ありえないことではないというわけです。

また「ホテル暮らしで犬を飼えるのか?」という疑問に対しても、

(googleによる和訳)
「彼 [ワトソン] はストランドの個人ホテルでペットの犬を飼っていたのでしょうか? ホテルの宿泊客がペットの犬を飼って、ホームズに出会う前のワトソンの言う「無意味な生活」を少しでも和らげる可能性は、ホテルのランクが上がるにつれて高くなります。高級ホテルは富裕層の気まぐれや気まぐれに応え、今日でも宿泊客が望む、そして支払うことができるあらゆるサービスを提供します…。ベデカー (1905) は、ロンドンのストランド地区で「最も気取らないホテル」の宿泊費 (つまり、部屋と食事が完全に含まれる) を 1 日約 10 シリングとしています。「多くのホテルは犬の受け入れを拒否しますが、1 日 1/6 から 3 シリングで適切な場所での宿泊費を提供しています」と書かれています。ホテルの外で時々食事や飲み物をとったり、週に1シリングで温泉に入ったりする生活費は、犬の宿泊費や食費を含める前でもワトソンの年金を飲み込んでしまうだろう。」

したがって、犬は「個人のホテルには不適切」というよりは、高価だった。しかし、愛国心のある個人のホテルの支配人が、マイワンドの致命的な戦いの退役軍人 2 人、1 人は二本足、もう 1 人は四本足の犬を歓迎する様子は容易に想像できる。

としています。
そういった根拠から最終的にこの記事の著者が提唱している説は

(googleによる和訳)
私は、ワトソン博士が1880年10月にアジアを出発する少し前から、1881年にイギリスに到着して数か月後まで、バークシャー犬の別の一匹を一時的に世話し、その後飼い主に返したという説を提唱する。

つまり一時的に犬を飼ってた(預かっていた)けど返した、という説。たしかにこれだとこの説の最大の弱点である「その後の物語でベーカー街で犬を飼っている描写が無い」という事の説明はつきます。

まあ本編に「預かっていたブルドッグを返した」なんて描写はもちろん無いので、推測でしかないのですが。

説2:癇癪持ち

シャーロック・ホームズ全作品の和訳が無料で読める「コンプリート・シャーロック・ホームズ」ではこの「ブルドッグ」の部分に次のような注釈がつけられています。

状況から考えて、本当に犬を飼っているか疑問。「癇癪持ち」の意味だという説あり。
https://221b.jp/h/stud-101-4.html

「ブルドッグを飼っている」が癇癪持ちの比喩というのはなんとなくフィーリングとしては分かる感じがします。

それからこれは僕の想像ですが、成犬じゃなくて子犬ということは、すなわち「小さめの癇癪持ち」と自身を表現するのもワトソンらしいような気がします。

その後に続く、

「神経が弱っているので騒音は嫌いだ。

というセリフともつながる感じがします。この時期は戦争で怪我をして戻ったばかりですから、騒音に対して過敏なのは想像に難くないです。「今のおれは騒音に関してはブルドッグのように怒るぞ」と。

ただ、その後のシャーロック・ホームズを読んでいるとワトソンはむしろかなり温厚で気が長いほうだと思われるので、「癇癪持ち」な性格かと言われるとそうじゃないとは思います。

それから「ブルドッグの子犬を飼っている=癇癪持ち」という比喩が(初対面のホームズに伝わるほど)当時の一般的な言い方だったかというところは疑問が残ります。

先ほどの英語記事の中でも、

(googleによる和訳)
「気性が荒い」という意味のアングロ・インディアンまたは軍隊の俗語。異論: この定義に関する、同時代またはその他の時代のシャーロキアン以外の辞書学資料は見つかっていない。

というS. タッパー・ビゲロー氏の言葉を引用しています。
つまり「気性が荒い」という意味で「bull pup」という俗語が軍隊では使われていた!アングロ・インディアンで使われていた!と言ってる文献は確かにあるんだけど、全部シャーロキアンが書いたものじゃないか。ということですね。

説3:拳銃を持っている

まずこちらのツイートをご覧ください。

「ブリティッシュ・ブルドッグ」という小型の拳銃が当時あり、それを所持していますという意味のセリフであるという説。

ワトソンは癇癪持ちキャラじゃないし犬を飼ってる描写もこの後一切ないですが、拳銃を持っている描写は度々登場します。なので「その後の物語との整合性」という意味では説得力はあります。

しかし「同居にあたっての欠点を互いに挙げる」というシーンで「拳銃を持ってます」というのはなんかズレてるようにも思えます。

原文でも「I keep a bull pup」はそこで終わりのセリフじゃなくて続きがあるセリフです。

“I keep a bull pup,” I said, “and I object to rows because my nerves are shaken, and I get up at all sorts of ungodly hours, and I am extremely lazy. I have another set of vices when I’m well, but those are the principal ones at present.”

後の部分とのつながりを考えるとますます「拳銃を持ってます」ではないような感じもします。

それから「ブリティッシュ・ブルドッグ」という小型の拳銃は確かに当時あったのですが、当時それを一般的に「bull pup」と呼んでいたかというと、そうでもないようです。

また先ほどの記事から引用すると

(googleによる和訳)
ワトソンがポケットガンを所有していて、それを「ブルパップ」というかわいらしい呼び名で呼んでいたとしても、それは彼が読者やホームズに教えなかった私的なニックネームだった。

また、先ほどの「ブリティッシュ・ブルドッグ」先ほどのとは別に通称「bull pup」と呼ばれる銃は存在します。
これは拳銃ではなくてこんな感じの本格的なライフルの呼び名です。

弾倉などの部分を引き金より後ろに配置することで従来のものより銃身を短くしたライフルのことだそうです。
一般人が護身用に持ち歩くようなものではないですね。

戦争帰りのワトソンがライフル銃を持って帰ってきて所持していたのでは?こんなものを所持してるとしたら確かに同居にあたっての欠点として挙げるべきだし・・・と言いたいところですがこれにも反論が。

(googleによる和訳)
このタイプの武器を指すブルパップという用語は、1930 年代まで一般的には使用されませんでした。ブルパップ マシン ピストルは、1936 年まで特許を取得していませんでした。 
したがって、ワトソンがアフガニスタンからライフルを持って帰ってきたとしても、その銃はブルパップ銃ではなかったはずであり、その名前で呼ばれることもなかったはずだ。

「緋色の研究」が発表されたのは1887年なので、少なくともライフル説は無さそうです。

結局文字どおりなのか?

こうして3つの説を見てみると「癇癪持ち説」も「拳銃説」もちょっと無理がある気がして、結局文字どおりブルドッグを飼っていると読むのが正しいのかな?という気がしてきます。

しかし本編にブルドッグを飼っている描写が全然ないのも事実なので、やっぱりコナン・ドイルが忘れちゃったのかも。

ちなみに映画では

ロバートダウニーJr版のシャーロック・ホームズでは、こうした議論があることを承知の上であえてだと思いますが、ワトソンがブルドッグを飼っています。

名前は「グラッドストーン」です。